救いの無い世界
私の経験
たぶん、あれは小学校一年生の時だったと思います。
雨が降る学校の帰り道のことです。
記憶がないところは多いのですが、たぶん、お腹が痛いのに学校のトイレに行くのを我慢して、家に帰っていたのだと思います。
で、耐え切れず下痢をもらしてしまいました。
半ズボンのところから、下に垂れる感じになったのを、他の連中に見つかるまいと、傘で必死に隠しながら、同級生から離れ、通学路ではない竹やぶや森の中を通り、何とか家に帰り着きました。
「何となくばれたけど、はっきりとはばれなかった」という感触だったのを、何となく覚えています。
次の記憶の場面は、家の風呂場です。
私の母親は、「みんなに見られなくて、本当に良かった」、「良かった」といった言葉を繰り返しながら、私を洗ってくれています。
そのときの、私の気持ちは、
- へぇ~、この人は、こんなときは、こんなことしてくれるんだ・・・
- でも、なぜ、この人は、『良かった、良かった』というのだろう?
っていう不思議なものでした。
別に、母親に甘える感じでもなく、そうしてもらって安心な気持ちになるでもなく、無感情で「この人が洗いたがっているから、好きにさせている」といった感じで、ボクシングに例えると、戦意喪失状態で相手に好きに殴らせているという表現がピッタリくるような心境だったことを覚えています。
この文章を書きながら、小さい頃(幼稚園前後の頃)は、母親に、本当によく泣かされていたということを、薄っすらと思い出しました。
泣きすぎて目がはれた違和感を感じながら、「どうして、こんなに泣いてばかりいないといけないのだろう・・・・?」、と何度も思ったような記憶があります。
母親は、何かあると直ぐに、泣き叫ぶ私を真っ暗な地下室へ引き摺りながら連れて行き、閉じ込めました。
その「何かあると」の『何か』というものが、さっぱり理解できない規則によって、判定されていたのだろうと思います。
基本的には、
- 自分(私)がつらい気持ちや悲しい気持ちを感じる出来事に遭遇した(もしくは、出来事を起こした)ら、母親に責め立てられる
という規則があったと考えると、下痢の事件のときの私の反応も理解できます。
その事件は、過去の経験からは、「当然、責められることになる出来事だ」と子供の頃の私は、無意識に感じたのだろうと思います。
ところが、そうはならなかった。
「なんだ?? いったい、今、自分が体験していることは、何なんだ!?」
そんな感じだったんだろうと思います。
ちなみに、母親が私を怒る規則は、
- 母親の機嫌・感情的な反応
- 一般的な子供との比較
- 子育て本に書かれているようなこと・世間で言われているような子育ての常識・定説を実践しようとする
などによって構成されていたようです。
今の私が見れば、論理的思考のできない母親で、実践においても論理的な整合性は取れていません。
ですから、幼稚園前の私に理解できないのは当然のことだと思えます。
また、幼稚園になった時から、急に、母親の接し方がそのように変わるとは考えにくいので、恐らく、赤ちゃんの頃から、似たような対応はされてきたのだろうと想像できます。
私の親心
私は、自分の子供たちが泣いていたら、抱き上げたり、抱きしめたりするということを、一生懸命にやってきました。
これは、カウンセリングや催眠療法を実践する中で理解しながら組み立てた理論に基づいた『子育てにおける最優先の最重要事項』です。
このことは、このサイトに限らず、色々なページで、「そうかそうか」と子供の感情を抱きしめることが大事だと説いてきました。
このページの文章を書いていて、私が一生懸命に子供たちを抱きしめようとする理由が、実は、もう一つあったということが分かりました。
- 自分が子供の頃にしてもらえなかったことを、自分の子供たちには、たくさんしてあげたい
- 自分が経験したような思いは、決して、子供たちにはさせたくない
という思いが、無意識の中で働いていたような気がします。
これは、このコンテンツのはじめのページ『私の親心』で引用した世代を超えて伝わる基準に当てはまる状況に陥っていた恐れがあります。
私の場合の『分割する基準』は、『泣いているかどうか』というところにより重点が置かれることによって生じていたように思います。
「泣いていないとき、ちゃんと関われていたかな・・・・?」、これが、分割によって疎かにしてしまっていたかもしれない、もう一つの側面です。
とはいえ、こちらも心に傷を抱える身、完璧な対応を続けることなんて不可能です。
また、それが完璧な対応かどうかも分かりませんし・・・。
ですから、その辺は無理をしないで、夫婦で旨く補い合えればいいのかなって思います。
ということで、これからも、泣いている子供たちを抱きしめるときに、心の中の子供の頃の自分もちょっぴり重ね合わせてついでに抱きしめ、少しずつでも自分にも癒しを送り続けていこうかと思います。