01. 人間観のベースを身に付ける流れ
人間観(人間関係に対する感覚)の形成される流れについて考えてみます。
人がこの世に生を受けたとき、そこには、自分の養育者達による人間関係が既に存在しています。
小さな子供は、
- まず、自分の家庭内のコミュニケーションを観察し
- 次に、そこで学習したことを生かしながら、そのコミュニケーションに参加する
といった流れになります。
そして、学習した内容は修正・強化が繰り返されて、それぞれの家庭により適応できるように磨き上げられていきます。
そこでポイントとなるのが、
- 『それぞれの人にとって大切なもの』が、どのように扱われるのか?
ということです。
『それぞれの人にとって大切なもの』というと大げさなもののように思われるかもしれませんが、それは日常の生活の中ではあまり意識されない、どちらかというと些細なことのように思われがちなことです。
- 感覚(おいしい、まずい、暑い、寒い、心地良い・・・)
- 感情(嬉しい、楽しい、悲しい、苦しい・・・)
それぞれにとって大切なものの中に、考えや価値観というものもありますが、これらは2次的なもので、最初の段階では、それほど重要ではありません。
そして、その大切なものを扱う傾向には、次の2つに分類できます。
- それぞれの人にって大切なものを、お互いが大切にしようとする
- 「一方を正解、一方を不正解」と判定しながら、どちらか一方を選ぼうとする
子供が前者を多く経験した場合は『自分の願いは実現する』、後者の経験が多い場合は『自分の願いは実現しない』という認識につながると考えています。
子供にとって、家庭は、自分の生きる世界のほとんどの部分を占め、「家庭=世界」を意味します。
つまり、自分の生きる世界に対して、『自分の願いは実現する』、或いは、『自分の願いは実現しない』というイメージを持つことにつながるのです。
このイメージは、子供は成長と共に行動範囲を広げ、家庭から離れた後も、新しい世界にもまず当てはめられる基準の感覚となって、その人に付きまとうことになります。
とはいえ、人間観は家庭以外での人間関係で修正される可能性もあります。
それには、次で説明するコミュニケーションに関することが大きく関わってきます。
- それぞれの人にとって大切なものがどのように取り扱われるのかという結末の予感が、その人が生きていく上での世界観に大きな影響を与える。
【補足】 01-01. 感覚が違うだけで、自分が否定されたように感じてしまう
コミュニケーションは、お互いの感情や感覚や思考や行動が異なるということを認識するところから始まります。
それらが全く同じならコミュニケーションは必要ありません。
コミュニケーションをしたくなるということは、自分自身が、お互いのそれが異なっていることに気づいている証拠なのです。
しかし、相手から自分とは違う感情や感覚や思考や行動が表明された時点で、イライラしたような感覚につつまれて、コミュニケーションを終了したくなってしまうことがあります。
それには、過去の自分の感情や感覚や思考や行動の扱われ方によって、身にまとってしまった結末の予感が関係していると考えています。
そして、自分の感情や感覚を否定されることを繰り返し経験すると、否定されるという結末が、スタート時点で予測できてしまったような錯覚に陥ってしまうのです。
例えば、ありえない話なのですが、家のドアを開けたとき、そこにライオンがいたとします。
その時は驚いてドアを閉めたとしても、はじめのうちは、「あれは、たまたまだったのだろう」と思って、再びドアを開けようとすることが出来るかもしれません。
しかし、それが毎回のことだと、もう開けることが出来なくなってしまうような感じです。
家には違うドアがあることに気づけば、ライオンのいない世界に出て行けるかもしれませんが、もし、ドアがひとつしかないように感じてしまうと、身動きが取れなくなってしまいます。
この例を使って、「悩みから開放される」ということをついでに説明しておきますと
- 昔は居たライオンがもう居なくなっていたということに気づくこと
- 意識しているドアとは違うドアが他にも沢山あるという事実に気づいていくこと
と表現できます。
ですから、子供には、「最後は、きっと分かり合える」という良い結末の予感のプレゼントを続けていこうとすることが大切です。
「きっと、分かり合える」という予感につつまれていれば、お互いの相違に気付いても、逆に、ワクワクすることさえ出来るのです。
【補足】 01-02. 誤った反面教師的な学習の仕方
これについて、正しく理解しなければ、家庭のタブーや苦しさの雰囲気は、親から子供へと伝わってしまうことになります。
例えば、「人に優しくしたい(ひどいことはしたくない)」ということを強く思っていると、優しいか優しくないかということばかりに意識が向いてしまい、他人が優しいかどうかを批評したり責めたりするようになって、その結果、最も自分がなりたくなかった「優しくない人」になってしまうのです。
本当のところは、
- 心の優しい人は、「優しさ」なんてことを意識しなくても優しいし
- 心の優しい人でも、優しくできないときには、優しく出来ない
というものなのです。
つまり、「優しいかどうか」という基準によって様々なことを判断したり、その基準が分かつ一方を死守し続けなければならないような感覚にしばられたりすることはないのです。
しかし、心の中に基準があると、選択肢の中で、基準によって良くないことと位置付けられる方を選ぼうとすると、自責の念が湧いてくるので、『いつも、その基準を満たす側を選び続けなければならない』という試練を自分に課し続けることになるのです。
また、その信念を、他人にも強要しがちになります。
しかし、『いつも、その基準を満たす側を選び続続ける』ということは、もともと無理なことですし、目指すべきことでもありません。
この基準による判断するという傾向は、自分にも、他人にもストレスを与えてしまうことになります。
そして、その無理は、我慢の限界を超えたとき、爆発してしまうのです。
そうなると、
状態になってしまうのです。
また、普通は、その基準によって、自分以外を分割しながら適応していこうとするのですが、逆に、自分の方を分割して適応しようとしている状態が、多重人格と呼ばれる状態なのだろうと考えています。
この自分を分割するのが、それらの人格の中の、全人格の存在を把握し、それぞれの人格を評価する人格なのだろうと感じています。
その人格が、自人格の厳しさやこだわりに気づいたとき、人格の統合は始まるのだと考えています。
分割されたものが「ある基準」を示していることに気付き、その基準線から自分が解放されることが、自分の心を安定した状態へと導き、その結果、家族のみんなが安心できる家庭を作っていくことにつながるのです。
【補足】 01-03. 自分の願いが叶うという感覚
それがどんなに些細な事でも、チャンスがあれば、子供にも積極的に意見を話させたり、決断させたり、家族の決断の場に参加させたりすることが大切です。
家庭という世界の中で、
- 自分が決断したことが取り入れられる
- 自分の話した気持ちが受け入れられる
- 他者の気持ちと融合して新しい解決や決断が得られる
といった経験を繰り返し、『自分の気持ちが大切にされる』という感覚を体で覚えることが、人の心の最も大切な部分を作ることにつながるのです。
なぜなら、家庭で身に付けた「自分の気持ちが大切にされる」という感覚は、子供の行動範囲の広がりとともに、
- 地域の中で大切にされているという感覚
- 学校や職場の中で大切にされているという感覚
- 社会の中で大切にされているという感覚
- 世界の中で大切にされているという感覚
というように変化していく感覚の基礎となるからです。
つまり、それを大切に出来る基礎を体得した子供が、自分の希望が実現される世界で生きていけることになるのです。