「群れる動物」として人を育てる
人は、育て方によっては、「群れる動物」にも「群れない動物」にも育ってしまうのだろうと考えます。
進化論で人類の祖先はサルだといわれています。
ならば、人はもともと、群れる性質をもった動物なのだと思います。
このことは、人と人とのつながりについて ( 私の理解した心の全て ) でも、ちょっと考えてみました。
「群れない動物」
「群れない動物」として熊をイメージしてみます。
熊のことを詳しく調べたわけではありませんので、ここから書くことは想像です。
熊が草原を歩いていたとします。
そこで、別の個体と出合ったとき、次のいずれかの行動をとるのではないかと想像します。
- 正面から向き合わないように距離を保ってやり過ごす
- いつでも戦いになってもかまわないように、相手を観察する
- 体を緊張させ、相手の弱点への攻撃と自分の弱点の防御に備える
- 万が一、正面から出くわしてしまったら、相手の弱点を狙って攻撃する
この想像の目的は、人間の行動の意味を推測することですから、細かいことは大目に見てください。
推測を続けます。
この相手を観察する場面では、攻撃を想定するならば、相手の弱点に意識を向けることが重要です。
また、防御を想定するならば、自分の弱点に意識を向けることも重要でしょう。
「群れる動物」
今度は「群れる動物」としてご先祖様のサルをイメージしてみます。
群れの中で別の個体と出会いました。
群れは、お互いを守り合いますから、相手の弱点を探す必要はありません。
それどころか、敵意が無いことを示すために、自分の弱点を相手にさらす行動をとったりします。
また、群れの「お互いを守る」という機能を活性化させるためには、
- 自分はどの程度のことなら相手のことを守ってあげられるか?
- 自分は、どの程度のことは、誰に守ってもらったら良いのか?
ということを意識しておくことは重要だろうと推測します。
人にあてはめると・・・
これらの「群れる動物」、「群れない動物」で考えたことを人間に当てはめると、どうなるでしょう?
例えば、次のような性質の違いが現れるかもしれません。
「苦手克服」とかいって、短所ばかりを意識させて子供を育てることは、本来群れるべき人間を「群れない動物」として育てるに近い意味があると考えています。
また、前項の家庭の機能で説明したように、あまり守られる体験を積み重ねて育った状態の人も、「群れない動物」として育てるに近い意味があると考えています。
今の日本社会は、
- 教育社会には、「群れない動物」として育てようとする傾向がある
- 経済社会には、群れる動物である人(サル)が、群れの一員として属するべき猿山がない(昔は、会社や組織が終身雇用や福利厚生などの制度によって、サル山の役割を果たしていたのだが・・・。)
という特徴があると考えています。
現代社会のそのような特徴は簡単には変わらないと思います。
しかし、基本的な考え方 の各項で説明したことを踏まえて、せめて家庭だけでも、自分たちの力で、サルである人間が安心できる猿山として保ち続けることは可能です。
そして、そうすることが、今は何よりも大事なことだと思います。
これは人が幸せを感じることに大きな影響を与えると思っています。
そして、きちんとした猿山がたくさん出来てくれば、人の顔をした熊がウロウロとしているこの社会は、人の顔をしたサルが猿山を作って安心して助け合える社会になるのではないかと思います。