今を共に良く過ごす
もし、明日、自分の子供が死んでしまったら、何を思うでしょうか?
あるいは、明日、死ぬということがわかってしまったら、何を思うでしょうか?
(子供に対してだけではなく、自分に対しても同じ問いかけができます。「もし、明日、自分が死んでしまうとしたら、自分の人生はこれで良かったのだろうか?」。そのことは、また、別のところで説明します。)
子育てのときに、「子供の将来のために○○○○」という言葉がしばしば使われるところがあります。
- 「将来のため、しっかり、勉強しろ」
- 「将来のため、我慢しろ」
- 「そんなことよりも、将来の自分のためにすべき大事なことがあるだろ!」
これらの言葉は、将来というものがあることが前提で、将来があるから今を生きる価値があるといった意味合いが入り込んでいます。
そして、その『将来』という想像の世界がなくなった時点で、「将来のため・・・」は何の意味を持たない言葉になってしまいます。
(「五月病」というのも、将来だけを考えて勉強ばかりをしていた結果に、将来を見失って陥る状態だろうと考えています。)
ですから、「将来のため・・・」という言葉は、目標にするにしても最優先ではなく、優先順位は2番目以下であるはずなのです。(「老後のため・・・」も似た言葉ですね。)
しかし、現代人の多くは、教育社会という虚構の世界にどっぷりとはまり込んでしまうと、そんな「将来のため・・・」といった言葉だけよりどころにして、成人までの期間を過ごし、また、自分の子供にも過ごさせようとするところがあります。
共に良く過ごす
「そんなこと(今の自分を喜ばせるために大切なこと)よりも、将来の自分のために勉強する」ということが習慣にしてしまうと、自分にとっての「そんなこと」に気づけない人間になってしまいます。
自分の気持ちが良くわからないから、とりあえず勉強したり、とりあえず働いたり・・・・。
でも、実は、人にとっては、「そんなこと」の方が、大事なのだと思うのです。
「そんなことを一生懸命に頑張って、次の優先順位として将来のためのこともする」
そして、
- そんなことを頑張っている子供を応援し、
- そんなことをやって嬉しそうにしている子供の顔に気づいて一緒に喜び、
- 失敗して悲しんでる気持ちを「そうかそうか」と聞いてあげる。
そんな風に、いつも子供の「たった今の感情」に寄り添って過ごすこと、それが、共に良く過ごすということです。
そこさえしっかりしてあげれば、お互いの心が満たされている確率は高まります。
何かのときに、悔いが残る確率も低くなるでしょう。
子供は自分の人生に必要だと思ったことは自分から取り組んで、自分の人生を安心に進んでいけるのだと思います。
子供が、「将来」という現代社会が生み出した妄想に飲み込まれ、今を犠牲にしてばかりにならないよう、親は、注意してあげましょう。