しっかりしている
「しっかりしている」とは、具体的には、どういう意味なのでしょう?
大人が子供に「しっかりしろ」と言うとき、「この場面ではこうすべきだ」という大人のイメージと同じことを子供に求めている と説明できます。
しかし、当たり前ですが、子供に、大人と同じレベルを求めるのは難しいところがあります。
子供の年代によって、求めることができるレベルは変わってくるものです。
これらのことを理解している大人は、恐らく、子供に対して、「しっかりしろ」とはあまり言わないだろうと想像しています。
逆に、子供に「しっかりしろ」という言葉を頻繁に使っている人は、主に、子供を責めることを目的としてこの言葉を使っていることが多いです。
また、子供の年代によって求められるレベルが変わることを理解せず、大人と同じレベルの思考や行動を求めていることも多いと思われます。
そんな親の元で過ごす子供たちは、自分で感じ、考え、行動すると「しっかりしろ!」と責められることになります。
そこで、そんな親の要求に答えるために、子供たちは、自分で感じて考えることを諦め、
- このようなときは、こうすべき
という状況と行動の関係性を子供なりの理論によって構築し、行動の規則集として蓄積していきます。
この規則集が、その子供にとって絶対的なものとなってしまうと、子供は自分で感じ考え行動するということができなくなってしまいます。
何かに遭遇する度に、「この状況は、規則集のどの項目に当てはまるのだろう?」と規則集を探し、それが示す通りに行動するようになってしまいます。
まだ、子供が、「しっかりしろ」と責める大人の支配下にあるうちは、そのやり方で無難に過ごしていけるかもしれません。
また、小さいうちは、他の大人に「しっかりしてるね」なんて言われることもあるかもしれません。
でも、その子供が、支配者から離れたり、複雑な状況に遭遇したときに、行動の規則集だけを守ろうとすると、おかしなことになってしまいます。
その状況には見当違いのことを言ったり、見当違いの行動したりする確率が増してしまうのです。
この世の中の出来事は、単純な規則だけでは解決できないことの方が多いからです。
しかし、感じたり考えたりする能力は、随分昔に放棄していますので、自分の規則集で解決できなければ、どうしたら良いのかが分からなくなってしまいます。
このような理由で、「しかりしろ!」と子供を責めて育てたら、しっかりした大人になる確率が低くなるということです。
では、しっかりした大人に育てるには、どうしたらいいのでしょう?
それは、子供が
- 子供らしく自らが感じる
- 子供らしく自らが考える
- 子供らしく自ら行動する/発言する
ということを妨げないように育てることです。
子供に特定の行動や発言を強要するのではなく、子供を主体的な存在として認めること、そして、子供がそれらを自分のペースですることをのんびりと見守ることです。
知識や考える能力は、成長する中で自然に増していきます。
それに伴って、行動や発言のレベルは自動的にアップしていきます。
つまり、親が子供をしっかりさせようとしなくても、子供らしく過ごしているのを見守るだけで、子供は勝手にしっかりしていくのだということです。
極論すると、
- 子供の話をゆっくりじっくり聞いてあげる、そんな習慣を続けるだけで、子供らしい子供は、しっかりした成人になる
と言えると考えています。
- 自分らしく感じる
- 自分らしく考える
- 自分らしく行動する/発言する
どんな状況に置かれても、周りの雑音に振り回されずに、この3つのステップを、自分のペースで進んでいけるようになった人のことを、しっかりした人と呼ぶのだと思います。
「神童も二十歳を過ぎればただの人」という言葉があります。
これが伝えようとしていることも、実は、似たようなことなのかもしれないと、ふと、思いました。