
叱って育てる・褒めて育てる


はじめに
人は生まれてから社会に一人立ちするまでの間、社会で生きていくために必要な知識を暗示として蓄積していきます。
その暗示(知識)を蓄積する方法として、次のようなものが挙げられます。
- 他人から与えられたものを受け入れる ( しつけ、教育、情報、社会の常識・慣習 … )
- 自分で体験したことを蓄える
- 理解できないことを自分なりに解釈して作り出す
- 蓄積されたものを、自分の中で体系立て、それらを包括する上位の解釈を作り出す
- 既に蓄積したものを、経験に応じて修正する
インプットがあるのは、はじめの2つです。
(残りの3つは、自分の中で起こることです。)
「叱って育てる」/「褒めて育てる」について
『褒める』と『叱る』は、対極の位置にあると感じる言葉です。
ですから、「褒めて育てる」と「叱って育てる」は、子育ての大きな方針(或いは、方法)の違いとして受けとめられやすいところがあります。
しかし、褒めて育てても叱って育てても、「親の価値観を子供に受け入れさせようとしている(暗示を入れようとしている/洗脳しようとしている)」ということでは、大した違いはありません。
「どのようにして暗示を身につけるのか?」というところに焦点を当てると、もっと大切な対極となるものが浮かび上がってきます。
- 暗示(知識)を他人から得るのか
- 暗示(知識)を自分の体験から得るのか
ただ、子育てにおいて、ある程度は、子供が親の思う通りに動いてくれなければ、親の負担が大きくなってしまいます。
ですから、親の価値観を植えつけて思う通りに操ろうとするのはやむを得ないことです。
(ただ、やりすぎると、思春期(第二次反抗期)の反動が大きくなると予測されます。)
叱って育てる
「叱って育てる」を広い範囲に渡って強烈に行った場合、子供の主体的に感じ・考え・行動しようとする力が奪ってしまう恐れがあります。
すると、主体的な経験による暗示の蓄積が不足してしまうので、思春期という世界観の再構築が起こらない心配が生じます。
叱るときは、子供を追い詰めてはいけない で説明したように、子供の逃げ場を確保してあげることが、子供の心に大きなダメージを与えないようにするためには大切だと考えます。
褒めて育てる
「褒めて育てる」は、多くの場合、
- 親が望んでいるように子供が行動したときに、「良くできた!」「よくやった!」などと、意識して褒めること
を指しています。
「叱って育てる」とは異なる方法論のように感じられますが、親の価値観によって評価する、つまり、親の価値観を子供に暗示として入れ込もうとしているということでは、「叱って育てる」とそれほど違いはありません。
ただ、そのときに受けるダメージは、『叱る』と比較すると少ないと想像できます。
ただ、褒めて育てても叱って育てても、やりすぎると、行動動機の主体が、自分の望みではなく、他人の望みへと傾倒させてしまいます。
これによって、将来、子供たちが「自分が分からない」的な感覚に包まれるという結構深刻なダメージを与える可能性があります。褒める、叱るにこだわりすぎてはダメなのです。
また、親の価値観に一致したときは『褒めて育てる』を意識して過剰に褒めがちですが、不一致のときは、結局は『叱る』ことになりがちです。
『叱る』というのは「怒ったふりをする」ことで、感情的になって怒ることとは違います。
支えて育てる(体験させて育てる)
これを実践するために、親は、どのようにすれば良いのでしょうか?
それは、子供の感情に合わせた反応をすることです。
- 子供が喜んでいたら、一緒になって喜ぶ
(親は、自分の価値観と合致したことが嬉しいから喜ぶのではなく、子供が喜んでいるという目の前の事実を喜びます) - 子供が泣いていたら(つらそうにしていたら)、子供が安心な気持ちを取り戻すまで抱きしめてあげる
これだけです。
「自分で感じ考え行動した結果、嬉しいことが起こり、親もそれを喜んでくれたからもっと嬉しくなった」という経験の繰り返しは、自分で感じ考え行動する原動力となります。
つらい気持ちのときも、親に抱きしめられれば心は回復し、つらい体験の記憶がトラウマになること防ぎます。
また、「つらい気持ちが回復する」という体験を繰り返せば、多少つらくなりそうなことでも、安心してチャレンジすることができるようになります。
これらの体験を繰り返すことによって、心の無意識のところに入り込む次のような暗示
- 自分の嬉しいことを他人も喜んでくれる
- つらくなっても、抱きしめてもらえたら楽になれる
が、自信や安心感の正体だと考えています。
ただ、これは、「放任主義という名のもとに、子供をに好き勝手にさせる」ということではありません。
親が、事前に教えることが出来ることは、情報として与えてあげれば良いのです。
「ああしろ!」「こうしろ!」と行動を制限するのではなく、「こんなことになる心配があるよ」とか「こんな良いことがあるかもしれないよ」とかいう感じで、情報を与えれば良いのです。
あとのことは子供に任せて、子供が外で何かを体験して帰ってきたら、一緒に喜んだり抱きしめたりするだけです。
これによって、子供は、自分の体験に合った暗示(知識)を蓄積していくことが出来ると考えています。
このように対応できる割合が大きければ、親は、反抗期(第一次反抗期、第二次反抗期)と呼ばれている時期を「反抗している」とはあまり思わなくなるでしょう。
また、思春期(第二次反抗期)に起こる世界観の再構成において、子供が感じる衝撃も小さくて済むのではないかと想像しています。
最後に
今回の投稿では、「しつけや教育によって育てる」は悪い、「体験させて育てる」良いと言っているのではありません。
- しつけや教育によって育てるのは、子供の為ではなく、社会や親を安定させるために大切なことです。
- 体験させて育てるのは、社会は混乱しますが、子供が直面している現実の中で生きるために役立つ知識(暗示)を獲得するために大切なことです。
要は、バランスが大切だということです。
そして、「褒めて育てる」「叱って育てる」よりも大切なこと、それは、「支えて育てること」なのです。
体験が少なくなれば、「共に喜んでもらい、苦しい気持ちに寄り添ってもらう」という機会は減っていきます。
また、親の「子供の体験を支える」という視点が薄れれば、やはり、そんな機会は減ってしまいます。
勉強ばかりさせていてはダメだし、親が子供を放置してばかりでもダメだといえるでしょう。