心を楽にするために振り返る子育て

私にとっての秋葉原事件

これまで、子供の頃の経験を色々と書いてきました。

結構キツそうな状況を過ごしてきたように、今は思えるのですが、高校生になっても、私には、自分が心に苦しさを抱えているという自覚はありませんでした。

自覚はないのですが、たぶん、「おかしなこと」にはなっていたのだろうと思います。

例えば、なぜか『完全自殺マニュアル』といった本を買っていました。本人は面白半分で買ったつもりでいたのですが、普通は買わない本です。

話は変わります。

同級生の中に、先生に毒づくやつがいました。

ある時、私も、真似てみました。

それをきっかけに、対する先生に苛立ちを感じると、先生に毒づくようになってしまいました。

やめようと思っても止められません。

(たぶん、心に溜まっていた何かが吐き出されて、スッとする感じがあったので、止められなかったのだろうと思います。一種の依存症です。)

私は困っていました。

あるとき、私がそういう行動をしていることを担任が嗅ぎつけて、私が毒づいた先生のところを順に連れて行かれて謝らされました。

涙が出てきました。

反省したからではありません。悔しかったのです。

「相手にも悪いところがあるのに、自分だけが、こんなに悔しい思いをしなければならなくなるのなら、もうやめよう」

それ以来、私は、先生に毒づかなくなりました。

「担任の先生の指導が私を更生させた」と言えなくもないのですが、

  • それまで無意識に外部に発信していたサインを、自分の内部に閉じ込めてしまった
  • 苦しさを吐き出す方法を失ってしまった

という方が、正しい解釈だろうと思います。

ここでも私の心は救われませんでした。

私にとっての秋葉原事件

それまで、俗に言う「おりこうさん」として生きてきたからでしょうか、「モヤモヤした何かの中に閉じ込められているような感覚」から解放されたいと感じていたのだと思います。

ある日、「そうだ、悪いことをすれば良いのかもしれない・・・」そう思いました。

それが、何のために必要なのか?

そうすれば、何から解放されるのか?

といった論理立ったものは何もないのですが、ふとそう思ったのです。

きっと、自由になりたかったのだろうと思います。(正体不明の何かから・・・)

一大決心をして、文房具屋さんに入っていきました。

誰もいません。

シャーペンの芯を1つポケットに入れました(お金は払っていません。万引きです。)

それが私が思いついた悪いことです。

店を出ました。

誰にも見つかりませんでした。

そして、何も変わりませんでした。

で、悟りました、「こんな悪いことをしても、何も変わらないんだ・・・」。

それ以降、悪いことをしようとは思わなくなりました。

(30年以上前のことなので、時効ということで許して下さい。)

友人との出会いがありました。

そんな私に一生懸命に関わってくれようとする音楽の先生との出会いもありました。

そんな出会いが、自覚のない暗闇から、私を引き上げてくれました。

あまりニュースも見なかったので、世の中の事件のこともあまり知りませんでした。

もし、あの頃、インターネットが普及していたら・・・

もし、あの頃、変な情報が私にインプットされていたら・・・

と考えると、ちょっと、恐ろしいです。

最後に、話はそれてしまいますが・・・・

マス・メディアに関わる方は、報道の自由を主張するのもいいですが、情報が人に及ぼす危険性のこともきちんと考えて、責任のある報道をお願いしたいと思います。

参考

関連することを、『あなたにもある心を回復する機能』で説明していますので、そこから引用しておきます。

心の苦しさが引き起こす方向性

③ 行動の傾向
何かしようとしているときに、「それをすることがどういうことにつながる可能性があるのか」をある程度客観的にも検証することができれば、もし、それが犯罪になる可能性があると認識すれば、その行動が起こされることはありません。
心に慢性的な苦しい感覚を抱えていた場合、その原因や行動の対象が明確になっていないので、どのようにしたら良いのか分からない状態になっており、その対象を無意識的に渇望しているところがあります。
そんなとき、一旦、何かをその原因や行動の対象と認識してしまうと、容易には手放せない状態、つまり、それを実行しなくてはいられない気持ちになってしまいやすいところがあると考えています。このようなことから、慢性的な心の苦しさは、普通は理性で思いとどまることができるような行動をしてしまったり、様々な事柄に執着しやすい傾向につながると考えています。

『あなたにもある心を回復する機能』 心の苦しさが引き起こす方向性(P.117) より

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