
子供の人生から「幸せ」を奪わないために・・・

人は、
- 起こった出来事
- 自分が置かれている状況
を、結果だと認識することが多いと思います。
そして、それが自分の満足のいかないものであれば、
- より良い出来事
- より良い状況
が実現できれば、自分は満足できるはずと考え、それを目指しがちです。
でも、「起こった出来事」や「自分が置かれている状況」は、結果ではありません。
『心』という ブラック・ボックス ( サイト名 : 私の理解した心の全て )では、心というブラック・ボックスのプロセス(処理)は、次図のように、過去の学習によって構築されることを説明しました。
そして、不要な学習を最小限に留めるために ( サイト名 : 私の理解した心の全て )では、「最も大切な学習」ができていないと、必要以上に強化された学習が身に付いてしまい、それが引き起こす反応に振り回されるようになる頻度が高くなることを説明しました。
この「最も大切な学習」とは、
- 悲しいとき、つらい時は、ただ「そうかそうか」と言いながら抱きしめてもらうこと
と説明しました。
これを少し拡大解釈すると、
- 子供が喜んでいるときには、「そうかそうか」と抱きしめてあげる
- 子供が苦しんできるときは、「そうかそうか」と抱きしめてあげる
となり、これは俗に言う「喜びも悲しみも分かち合う」といったことと同じです。
これを、「最も大切な学習」として心のプロセスとして取り込んだとき、心というブラック・ボックスは、「幸せ製造装置」へと変わるのです。
「最も大切な学習」をプロセスに持っている人は、嬉しいとき・悲しいときには、人を求め、自らを幸せの中へと導くことができます。
しかし、その学習が弱く、
- 子供が喜んでいるときには、「そんなことで喜ぶな」と馬鹿にされる(放置される)
- 子供が苦しんできるときは、「お前が悪い」「我慢しろ」と罵られる(放置される)
というような逆の「強烈な学習」が強いとき、次の図のようになります。
「強烈な学習」として心のプロセスとして取り込んだとき、心というブラック・ボックスは、「不幸せ製造装置」へと変わってしまいます。
このような学習をプロセスとして持ってしまった人は、次のような反応をすることが多くなります。(反応は、「頭では分かっているのに、なぜか分からないが、そうしてしまう」という感じのもので、意思でコントロールすることは困難です。)
- 事実関係は話しても、嬉しい気持ちは話したがらない
- 本当は嬉しいことなのに馬鹿馬鹿しく感じる
- 自分の望みを話したがらない(自分の希望が叶う確率が下がる)
- 他人から「良かったね」と言われると馬鹿にされているような感覚を感じる
- 事実関係は話しても、苦しい気持ちは話したがらない
- 苦しいときは、一人になりたがる
- 優しくされることを嫌う(「はじめは優しい振りをしていても最後には責められる」という予感があるので、その結末を避けるため)
「優しくして欲しいときに、反射的に優しくてもらうのがイヤになる反応」と聞くと、切ない気持ちになってしまいます。
このように、自分が幸せかどうかは、出来事や状況の良し悪しで決まるものではない のです。
結論
最後に繰り返します。
- 子供が喜んでいるときには、「そうかそうか」と抱きしめてあげる
- 子供が苦しんできるときは、「そうかそうか」と抱きしめてあげる
たったこれだけのことが、子供の将来の幸せへの原動力になるということを覚えておいてください。
