私の上に、長い間覆いかぶさっていた言葉があります。
「おまえは、カホゴだから・・・」
この文章は、私の母親がよく口にした言葉なのですが、私は母親の使う小バカにした文脈から、「自分は、カホ子(かほご)という普通ではない人間なんだ」と、長い間思い込まされていました。
その言葉に疑問を持ったのが、中学生の頃だったと思います。
色々な言葉に出会っていく中で、世の中に存在する「カホゴ」という言葉は、「過保護」であるという事に気付いたからです。
「過保護」にされた対象は幼かった頃の私かもしれませんが、その行為の主語は『母親』です。
でも、その当の母親が、「過保護」という言葉を使って、自分が過保護の対象としている私を責めていたのです。
つまり、いわれの無い罪を、着せられ続けていたのです。
中学生になって、ようやく私は、その矛盾に気付き、指摘することができて、「自分はカホ子なんだ・・・」と思わされていた魔法の言葉の攻撃からは開放されたのでした。
「カホゴ」という言葉によって、私に伝わってきたニュアンスは、「お前は、普通ではないダメな人間なんだ」というものだったような気がします。
そして、そのニュアンスを長い間受け続けることによって、『自分は出来損ないの人間なんだ・・・』と思い込まされてしまったような気がします。
その身についてしまった『漠然とした「自分は出来損ない・・・」という雰囲気』によって、時には「生きていてはいけないのかもしれない」と生きていることから逃げたくなるほど、私に重くのしかかり、その後も、私を長い間苦しめたように思います。
また、当時の母親は、私の事を自慢に思っていたらしく、「お前はできる子だ」と、よく言っていたように思います。
人格を否定され、肯定という形で親の期待を押し付けられ、本当は、かなり混乱してしんどかったろうと思います。
でも、幼かった頃の私は、そんなことに気付きませんでした。
「自分はできる子なんだ」と、これまた信じ込み、一生懸命に勉強し、母親を満足させ続けていたような気がします。
今の私には、母親に悪意が無かったことは、理解できます。
でも、悪意の無い言葉に、深く傷つけられていたことも、また、確かなことです。
まとめ
子供を評価したり決め付けたりするような言葉は、それが良い評価でも、悪い評価でも、子供の自由を奪ってしまうことにつながってしまうかも知れません。
そして、子供の心に、その子の人生において長く重くのしかかる傷を残してしまうのかもしれません。
例えば、「エリート意識」などというものも、もしかしたら、そんな傷の一つかもしれません・・・。
親がしなければならないこと、それは、子供を評価することではなく、その時その時の子供を受けとめる(受容する)、言葉や方法を探そうとすることなのかもしれません。
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