子供が、幼稚園や小学生の頃から、ずっと教え続けられる言葉に、『友達』というものがあります。
恐らく、多くの人は、この『友達』という言葉を、何の違和感もなく受け入れていると思います。
でも、実は、子供に『友達』という言葉を教え込むことは、その子供の人生に覆いかぶさる哲学的な問いかけを植えつけてしまう恐れがあるのです。
それは、そこにある人間関係が『友達』であることを証明することは、誰にもできないからです。
『友達』について、『あなたにもある心を回復する機能』の中で、少し説明していますので、そこから引用します。
友達
友達という関係があると思ってしまうと、自分に友達がいるかどうかが気になってしまいます。
友達という言葉を意識しているときの気持ちに焦点を当ててみると、おそらく「人と、このように関わりたいのだけど、それがうまくいかなくて困っている」ということが多いのではないかと思います。そして、「友達になれたら、きっとそれがうまくできるだろう」という仮説を立てて、その仮説を信じているのです。
でも、友達が契約によって成立するわけではないので、いくら考えても、或いは、相手に確認したとしても、自分と相手が友達という関係であることを立証することはできません。仮に何らかの契約によって、それを成立させることはできるかもしれませんが、本当に求めていることはそんなことではないので、次第に虚しさのようなものを感じるようになり、再び、もともと感じていたであろう「本当の友達が欲しい」というような思いに引き戻されてしまいます。
ですから、友達かどうかというこだわりから意識を外して、「どんなときに、自分は誰とどのような関わりをしたいのか」ということに意識を戻すことが大切です。
例えば、テレビドラマの話をしたいとか、お昼ごはんを一緒に食べたいとか、勉強を教えて欲しい・教えてあげたいとか、恋愛の話をしたいとか、一緒に帰りたいとか、休みの日に遊びに行きたいとか、年上なのか年下なのか同じ年なのか、同性なのか異性なのか、AさんなのかBさんなのか……といったことです。
そして、そのための行動を起こせたとき、本当に手に入れたかったものを手に入れることができ、友達という言葉にこだわる必要はなくなるのです。そんなコミュニケーションを取り合える関係になれたとき、自分自身が相手のことを友達と認めることができるのだと思うのです。友達とは求めるものではなく、後になってその人間関係を振り返ったときに、そう呼ぶことがあるくらいの言葉なのかもしれません。もともと友達などという枠組みはないのですから……。
もし、友達が居ないから悩みを話す相手が居ないと思っているとしたら、「悩みを話せる友達がいない」を「悩みを話せる人が居ない」と言葉を変えてみると、友達という限定された範囲ではなく、人という全体から、それに相応しい人を見つけようとすることにつながり、きっと、話し相手が見つかるだろうと思います。あとは少しの勇気を出すだけで良いのです。
『あなたにもある心を回復する機能』 (P.128 -129) より
『友達』という言葉を使ってはいけないということではありません。
誰かのことを『友達』と思うのなら、その人のことを『友達』と呼べば良いと思います。
何の問題ありません。
ところが、『友達がいるか?』という文脈で使って掘り下げてしまうと、引用にて説明したように、哲学の世界へとはまり込んでしまいます。
『友達』という言葉に振り回されないように、気をつけた方が良いということです。
子供たちに意識してやっていること
『友達』という言葉は、学校や幼稚園で幾度となく刷り込まれてしまいます。
現在の日本社会では、それを避けることは不可能です。
そこで、私は、『友達』という言葉が持つ意味を、曖昧化させるようにしています。
具体的には、例えば、子供が「友達がいない」と言ったとすると、
- そうかぁ~、よく遊ぶ友達がいないってことかな・・?
- じゃぁ~、ちょっとお話するお友達は?
- あんまりお話しない友達は?
- 苦手なお友達は?
- 全然話したことのないお友達は?
- 今度、お話してみたいお友達は?
- 仲良くなりたいけど、まだ、仲良くなっていないお友達は?
- ・・・・・・
みたいなことを、会話の中に混ぜ込むようにしています。(実際には、こんなに立て続けには質問しませんが・・・。)
このように『友達』という言葉を使うと、みんなが友達になってしまいます。
そうなると、「友達かどうか?」という哲学的な問いかけは無意味になります。
すると、子供の意識が、哲学的なところから離れて、人間関係の親密度の程度(仲が良い、今度話してみたい、苦手・・・)へ意識が向きやすくなるのではないかと考えています。
最近気づいたこと
最近気づいたのですが、日本人が使う『友達』という言葉には、次の2つの意味があるような気がします。
- 人間関係に、があるレベル以上の親密さがあること(一般的に感じている意味)
- 思い出
つまり、『思い出』という余計なニュアンスが含まれているように感じるのです。
『友達』という言葉と『思い出』という言葉は、ほとんど関連性の無い言葉です。
でも、どうも『思い出』的なニュアンスが含まれているように感じるのです。
(今は、まだ、うまく説明できませんが・・・。もしかしたら、第二の意味を無意識に感じるのが、学校教育の成果なのかも・・・・、と考えたりもします。)
例えば、「友達100人できるかな?」というフレーズに、『思い出』というニュアンスを感じませんか?
そして、『友達』という言葉に引っかかってしまっている人は、
- 頭では、前者と考える
- 無意識的には、後者の『思い出』という感覚を抱いている
というように「頭の理解」と「心の感覚」の調和がとれなくなって、混乱しているのかもしれません。
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