「体罰」を「罰」という視点で考えてみました

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以前、「不毛な議論に終止符を(その1) しつけと虐待」(読むカウンセリング)という文章で、

「虐待」と「しつけ」について、少し考えてみました。

 

そこで、

■ 「しつけ」 と 「虐待」 を区別しようと考すると混乱するので、「言葉でしつけるか、体罰でしつけるか」と考えては?

といったことを書きました。

 

でも、最近の「大阪の一件」が発端となった「体罰」に関する議論を聞いていて 、もう少し考えてみることにしました。

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体罰のイメージは人それぞれ

『体罰』という言葉を使って、色々な議論が起こっているようですが、

その言葉を中心に据えて議論しても、意味がありません。

なぜなら、人によって、その『体罰』という言葉から連想するイメージが違うからです。

そして、『体罰』という言葉にはもともと悪いニュアンスが含まれています。

 

そのような背景によって、議論の参加者は、大きく次の三種類のタイプに分類されると思います。

 

■体罰を受けたことはないけど、『体罰』という言葉がもっている悪いニュアンスを感じて反応している人

■実際に体罰を受けて苦しかった人

■実際に体罰を受けて良かったと思っている人

 

 

マスコミに出てくる人たちは、これら3種類の意見を整理することなく、焦点の定まらない議論を巻き起こしています。

 

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『体罰』について議論するときは、『体罰』という言葉は使用禁止にすると、

話しがかみ合って良いのではないかと思います。

 

マスコミの議論をあれこれ言うつもりはないので、話しを次に進めます。

 

罰について

はじめに紹介した投稿では、「言葉でしつけるか、体罰でしつけるか」といったことから結論に結びつけていましたが、

今回の一件で、 『 体罰 』 という言葉ではひとくくりにできない部分があることに気づきました。

その「ひとくくりにできない部分」を考えてみます。

 

『 体罰 』 という言葉から離れて、『 罰 』 について考えてみました。

一般的な罰ではなく、子供に対する罰です。

 

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感情的になった時の行動の種類

感情的になったときの行動は次の2種類のどちらかです。

 

■自分の気持ちを済ますための行動

 

・このような行動は、相手のためにすることではありませんし、その行動の最中に相手の気持ちも推し量ることもありません。

 

■錯乱状態のため、何をしているのか分からない

・このような行動が相手のためにならないことは明白です。

 

罰の種類

罰にも2種類あります。その種類と、特徴を書きます。

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■許すための罰

・罰は短時間で終わり、比較的簡単に解放される

・罰は、罰する人ごとに、たいていは定型化されている

・罰の内容とその終わる時期が予測されるため、罰に対してそれほど恐怖を感じない(怖いけど安心)

・その罰を受けたら、起こした問題に対する責任から解放される(許される)

・「悪い子供」は、罰によって「いい子供」に戻る

 

■責めるための罰

・罰は責める人の気が済むまで続く

・何をされるか分からない(罰の内容は定まらず、その罰の中や、罰の回数を重ねるごとにエスカレートする傾向)

・その時々によって、罰からいつ解放されるか分からない(ただただ恐怖)

・その罰を受けても、責任から解放されない(許されない)

・以降の行動に、破ってはならない新しい掟が追加され、それを破らぬように注意深く生きていかなければならなくなる

・「悪い子供」は、罰によって「囚人としての子供」になる

 

 

感情的になっている場合、たいてい「責めるための罰」になっています。

 

私の体罰経験は・・・

私の経験を振り返ると、学校生活で受けた体罰の全ては『許すための罰』です。

結構、痛かったのですが、トラウマのようにはなっていません。

それは、それらに「一撃で終了する」という安心感があったからだろうと思います。

 

先生によって罰の種類は1種類で、そのような罰には、『愛称』がついていました。

拳を握って、人差し指の第二関節の部分で、手首のスナップを効かせるゲンコツは『スコツンタン』と呼ばれていました。

やられるとものすごく痛くて涙が出てくるほどです。

 

肩の筋を親指と人差し指でつまんでコリっとする先生もいました。

それは、『アンマ』と呼ばれていました。

これも、一度やられると、小一時間は痛みが消えてくれませんでした。

 

でも、それ一撃で済むので、そんなに恐怖ではありませんでした。

 

授業中、給食のミカンの皮の投げ合いになったときは、関係した生徒が職員室の前に一列に正座させられて、スリッパの裏で一発ずつほっぺたを殴られたこともありました。

これも、事前にその先生の話によって諭されて、自分たちが悪いことをしたことを理解していましたし、ビンタを一発で終わるので、そのときは怖かったけど、痛さはしばらく続いても、恐怖感のようなものが尾を引くことはありませんでした。

 

そんな感じです・・・

 

ちなみに・・・

アントニオ猪木の気合いを入れるビンタがあります。

これは体罰とか暴力とかでしょうか?

そのいずれでもありません。

あれは、「気合いを入れる」ということです。

 

・やることは決まっている

・責めるためにやることではない

・やられる人はそれを望んでいる

・それをやれば終わる

 

これらによって、やられる人は安心感を感じているので、「気合いを入れる」という行為として成立しているのでしょう。

 

最後に

体罰に限らず、どのような罰にも言えることです。(言葉によって責める罰でも同じです)

これらが、体罰かどうかよりも前に、考えなければならない大事な視点ではないかと思っています。

 

 

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