「自分の感情」が変化(特に、怒りや悲しみ等の「負の感情」への変化)してしまうきっかけとなる「出来事」や「相手の言葉」や「他人の行動や反応」などについて、そういうことを言われたり、されたりすると、自分が腹が立ったり悲しくなったりするのは当然のことみたいな感覚があったような気がします。
「そんな風に感情が変化してしまうのは、自分独特の反応(習慣)だ」ということを、認識しようとすることは、自分を解放していくためには、とても重要な事だったような気がします。
その自覚が出来るようになると、それまで、
- 『出来事 = 感情』
のような感じに一体化していたものが、
- 『出来事』 と 『感情』
という感じに少し分離することに役立つような気がします。
昔の職場で一緒に仕事をしていた人の中に、私が失敗をしそうになる直前に、私の間違いを指摘する人が居ました。
始めは、嫌味を言われているような気がして、「なんで、こんなギリギリになる前に教えてきれないの?!」と少し怒りにも似た嫌な感じがしていました。
そんな私の気持ちをよそに、彼は、その後も、直前になって指摘することを繰り返しました。
その繰り返しの中で、「彼は、私が失敗する前に(失敗しないように)、そのことを指摘してくれている」ということに、ようやく気づくことができました。
表現を変えると、『言葉』や『タイミング』や『表現方法』などは問題ではなく、失敗しないように間違いを教えてくれているという気持ちが大事だったということに気づいたのだと思います。
人それぞれ、言葉や行動には癖があると思います。
そして、私の場合は、「直前に指摘されること、嫌な感じがしてしまう」という癖があったように、そ れを受けとめる方にも「受けとめ方の癖」があるのだと思います。
そのお互いの癖が、「本当の気持ち」を通じ難くさせてしまっているような気がします。
これまで書いたように、『自分だけの感情の習慣』に気づくことは、「相手の本当の気持ち」から離れたところにある、受け取る側が勝手に作り出してしまう『幻の気持ち』から自由になるきっかけになるような気がしています。
「あの人には『地雷』がある」なんて表現があると思いますが、ここまで書いてきたことは、多分、この『地雷』のことだろうと思います。
また、『自分探し』という言葉も、しばしば耳にすることがあります。
その頃の私には分かりませんでしたが、今から振り返ると、『自分探し』とは、自分の中の『地雷』を見つけ出し、爆発しないように処理する作業』だったのかもしれないと思います。
コメント