子供の頃、「人生ゲーム」で遊んで、ものすごく楽しかった思い出があります。
で、最近、我が家でも、子供たちが人生ゲームにはまっています。
特に、小学校1年の弟の方がはまっていて、毎日といっていいほど、「人生ゲームしよう!」とせがまれます。
ところがはじめると、ゲームの調子の良いときはいいのですが、自分の思うように進まないと
- 職業決定のマスに止まれずに、フリーターになっちゃった!
- 買いたい家が買えなかった!
- せっかく買いたい家を買ったのに、火事で燃えてしまった!
- 嵐で持ち物が吹き飛ばされた!
- お宝がゲットできなかった!
- せっかくゲットしたお宝を、他人にとられちゃった!
・・・・・ 他にも色々なイベントがテンコ盛りです ・・・・・
何か嫌な出来事のマスに止まるたびに、そんな感じに、大泣きします。
寝転がったり、周りの誰かを叩いたりして、大泣きします。
悲しさや悔しさの心からの表現です。
逆に、良い出来事のときは、本当に心の底から喜びます。
喜びを全身で表します。
上の子供(小学校3年)も、ゲームを楽しがりはしますが、下の子ほどではありません。
で、子供が嫌なマスに止まって大泣きしているときは、
- 「そうかせっかくお宝ゲットできたのに、とられて悲しいね」
といった感じに対応していました。
でも、その内だんだん面倒になってきて、「ゲームなんだからそんなに真剣にならなくてもいいんだよ」と言っていました。
そして、その言葉を言いながら、ある禅の本に書いてあった文章を思い出し、その意味が理解できたような気がしました。
児玉大将が一日入室にきた。
鄧州は児玉に「軍人の禅とは何か。」即今、3000の兵を使ってみよ。それができなければ、勝ち目はないぞ」と問うた。
すると、児玉は「目の前に兵がいないのにどうやって使うことができますか」といった。
鄧州は「簡単ではないか。それができなければ戦はできない」と迫った。
さすがにムッとして「それなら、老師がやってみて下さい」というと、鄧州はいきなり児玉を押し倒し、「さあ、馬になれ」といって、彼の背中にまたがり、南天棒を振りかざし、大声で「全隊、進め」と尻に一鞭あてた。
児玉は鄧州を乗せたまま前へ進み、「わかりました、今日初めて禅機を見ました」と、喜んだという。
73ページ 上段10行目より引用
これだけでは、何が言いたいのか分からないと思うので、ヒントを出します。
子供の「人生ゲーム」への取り組みからも分かるように、子供の頃は出合うことの全てが大事です。
そして、それら全てに対して、一生懸命、真剣勝負です。
子供の心は純粋だということです。
そんな子供が、成長と共に、
- 社会が「価値がある」とするものを「本物」として取り入れ
- 社会が「価値がない」とするものを「いらないもの」や「ゲーム」として切り捨て
ていきます。
「打算的になっていく」と言えるかもしれません。
ちなみに、私も子供の頃は「ものすごく楽しい!」と思っていた人生ゲームなのですが、子供と何十年ぶりかにやってみて、懐かしさを感じるものの、あの頃に比べたら楽しさは雲泥の差です。
(いちいち泣き叫ぶ子供の対応もしなければなりませんし<–この対応も基本は「そうかそうか」です。)
親、上の子、下の子、この中で一番楽しんでいるのは誰でしょう?
それは、たぶん下の子だと思います。
だから、あんなに何回も何回もゲームの中で嫌な出来事があって大泣きをしても、今日も明日も、また、「人生ゲームやろう!」と誘ってくるのです。
そんな風に一番楽しんでいる人に対して、
- 「これはゲームなんだから、そんなに真剣にならなくてもいいんだよ」
と言うのは、どうでしょう?
ちょっと違う気がしませんか?
何かを感じていただければと思います。
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