はたから見ると、「あれこれと子供の世話をやきすぎだなぁ~」と感じる人がいます。
多少の世話をやくのは、まぁ、普通のことでしょう。
でも、複数の人から「世話のやき過ぎ」と言われる場合は、ちょっと考えた方が良いかもしれません。
誰もが知っていることですが、自分を客観視することは、なかなか難しいものです。
ですから、「自分は、子供の世話をやきすぎているか?」とチェックすることも、やっぱり難しい。
また、他人に指摘されれば、反発する気持ちが生じて、素直に聞き入れられないものです。
以前、「どうして、そんなに世話をやくの?」と聞いてみたことがあります。
「だって、~~~ だったら、可哀想だから・・・。」という答えが返ってきました。
今回は、世話をやき過ぎる動機の1つであるこの「~~~ だったら、可哀想だから・・・。」という考え方に着目して、ちょっと考えてみたいと思います。
「~~~ だったら」、本当に可哀想なのでしょうか?
まず、この文章では、どういったことを「世話をやく」と表現しているかというと・・・
- 子供の行動(予定)における注意点を、事前にしつこく指導する
- 子供が何らかの行動をする際に、その準備が整っているかを事細かくチェックする
- 事前チェックで不合格なら、くどくど注意する
- 親が「ここで行動を起こすべき」と考えている場面で、子供がもたもたして、「親の思う通りの行動」をしないでいたら、
- 子供に代わって、親が行動する(親が準備を整える)
- 感情的になって、子供に行動を強要する(自分の感情を利用して子供をコントロールする)
といったことです。
さて、世話をやく動機が、例えば、「忘れ物をして、学校に行ったら可哀想」というものだったとしましょう。
忘れ物をして、学校に行ったら、本当に可哀想なのでしょうか?
- みんなが持ってきているのに、うちの子供だけ忘れものをしたら、可哀想。
- 一人だけ忘れ物をしたら、恥をかくから可哀想。
- 忘れ物をしたら、先生に注意される(怒られる)から、可哀想。
- 忘れ物をしたら、授業で困るから可哀想。
「忘れ物をして、学校に行ったら可哀想」と思う人が考えることは、大体、このようなことではないでしょうか。
次のような文章を読んでみて下さい。
- 忘れ物をしないと、「隣の席の人が貸してくれ、一緒に使うという優しさや楽しさに触れる」という経験ができなくて可哀想
- 忘れ物をしないと、「忘れたものを借りるために、あまり話をしなかった隣の席の人と話をするきっかけができ、仲良くなる」という経験ができなくて可哀想
- 忘れ物をしないと、「ちょっとした忘れ物をしても、自分から誰かに声を掛けて借りたりして対処できる」という経験ができなくて可哀想
- 忘れ物をしないと、「先生に、こっぴどく怒られたもの同士、仲良くなった」という経験ができなくて可哀想
- 忘れ物をしないと、「忘れ物をしたことを先生に告白すれば、少しは怒られるけど、直ぐに許してもらえて、しかも、助けてもらえる」という経験ができなくて可哀想
どうです?
「~~~ だったら、可哀想だから・・・。」と世話をやきすぎると、逆に、子供が可哀想な気がしませんか?
人生では、何が幸いし、何が災につながるかは分からないものです。
「~~~ だったら、可哀想だから・・・。」という考え方に、あまりにも執着している場合は、ちょっと、近視眼になりすぎている恐れがあります。
もし、子供が、忘れ物をしたことによって、学校で、本当につらい気持ちになる経験をしてつらそうにして帰ってきたら、黙って、抱きしめてあげれば良いのです。
やがて、子供は、忘れても何とかできそうなものは忘れたとしても、本当に必要なものは、忘れ物をしなくなっていくはずです。
ところが、「~~~ だったら、可哀想だから・・・。」と必死に世話をやく人は、そんな時には、つらい気持ちになった子供を抱きしめることが出来ずに、「だから、○○しなさいって言ったでしょ!」と、つらい気持ちになっている子供に、更なる追い打ちをかけがちなところがあるように思います。
それでは、子供は、逃げ場 ( = 居場所 ) を失ってしまいます。
【参考】
このトピックは、次の5つの投稿によって構成されています。
- 「~~~ だったら、可哀想だから」と、あれこれと子供の世話をやく
- 【補足1】健康的な関係性における行動パターン、不健康な関係性における行動パターン
- 【補足2】親の過干渉が子供の性格に与える影響
- 【補足3】親の過干渉が解決への取り組み方へ与える影響
- 【補足4】子供のことにあれこれと口出ししてしまう原因
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